2012年7月アーカイブ

帰化申請について、三木清の著作権切れの文章をベースに考えて見ましょう。
帰化申請について、彼は何も語ってはいませんが、哲学者ならではの深い文章が、
国籍を考える上でも、帰化申請の動機を考える上でも、とても役に立つのです。。
一方ではすべてがルーティヌに従ってなされている。哲学は教授用のものとなり、あるいは単に教授になるためのものとなっている。哲学は今日人間の可能なる生存理由としていかなるものであるかについて、ひとは根源的に問おうとはしない。他方講壇哲学を見捨てた者の多くは、いわゆる知識社会学、イデオロギー論、等々、に赴いた。しかしながらこの者も、そのイデオロギー論、等々が果たして本来の哲学であり得るか否かについて、あまりに単純に考え、もしくは少しも考えてみない。
 ここではすべてがイージーに行なわれるのをつねとした。問題は社会だといえば、社会の概念が、問題は歴史だといえば、歴史の概念が、問題は唯物論だといえば、唯物論的見方が、それぞれ哲学の中へ取り入れられた。すべては滑(なめら)かに、多少の喧噪(けんそう)があったにしても根本においては何事も起らなかったかのように取り行なわれた。
 文壇においては事情は多少異なっている。いわゆる純文学の危機として提出され、討論された問題を通じて、この時代における人間のレエゾン・デエトルとしての文学の問題は、多かれ少なかれ自覚的にされた。しかるに最もラジカルであるべき哲学の領域においては、何事もあまりに無感覚に、安易に、妥協的に片づけられて来た。何よりも「問の情熱」、この哲学的情熱が喪失しているのである。
帰化申請について、引き続き、三木清の文章を読み進めながら思索しましょう。
帰化申請の必要書類や帰化申請の条件についても併せ考えましょう。
誰も語学者と文学者とを区別することを知っている。学校において文学の代りに語学の講義を聞かされて憤ることのできる者は、いわゆる哲学者の間にも同様の区別のあることを感じることができるはずだ。
 現代において、哲学するということは、人間の生存理由のいかなるものであり得るか、この根源的な問に対する情熱が哲学者といわれる者の倫理でなければならぬ。科学としての哲学、イデオロギーとしての哲学、等々の問題も、この問に比しては従属的であり、皮相的ですらあろう。生存理由としての哲学の問題との関係において哲学の方法も、対象も、形態も現実的に決定されるものである。この根源的な問の生きている場合初めて、哲学の言葉、その面倒な術語ですらもが、「具体性」をもつことができる。或る哲学が具体的であるか抽象的であるかは、主として、この点にかかるのであって、それが認識の問題を取扱うか社会の問題を取扱うかというようなことによるのではない。
 知識としての、あるいは教養としての、文化としての、もしくはイデオロギーとしての哲学の問題に先立って、現代の社会的精神的情況のうちにおける人間の可能なる生存理由としての哲学が問題にされねばならぬ。哲学することの倫理について、哲学者が根源的に問うことが何よりも要求されているのである。
帰化申請を考えるにあたり、以上の三木清の文章は参考になりましたか?
著作権切れとは言え、さすがは三木清。帰化申請についても大きな参考となりますね!
アポスティーユ代行について、いいブログを見つけちゃいました。
このブログは、アポスティーユ代行を行なっている業者さん(行政書士かいまいち不明・・・)が、
アポスティーユ代行業務の中で感じたことを書き記しているブログのようです。
そのブログを読んだ後、著作権切れの三木清の文章を読みました。一部ご紹介。
この社会にあって無産者的存在の可能性はいかなるものであろうか。社会的存在の客観的現実性は、それの直接性においては、無産者にとっても有産者にとっても「同一」である。けだし無産者は資本主義的社会秩序の必然的産物として現われる。一切の生のかの物質化をそれ故に無産者は有産者と共同に分有する。しかしながら両階級がこの同一なる直接的現実性を、それの媒介性において、本来の客体的現実性にまで高める範疇は、両階級の存在の存在の仕方の相異なるにしたがって、根本的に相異なるものでなければならぬ。
アポスティーユに代行ついては、何も触れていない三木清ですが、そこは哲学者の深い文章。
アポスティーユ代行についても得るものはあります。
なぜなら今や商品の構造は社会的存在一般の対象性の原型として普遍的意味を担うことにまで到達したからである。そこで彼らはこの永遠化を実現するためにい わゆる「永遠なる」イデオロギーを打ち建て、いわゆる「普遍妥当的なる」理論を築き上げる。真実を言えば、このそれ自身抽象的なる永遠性もしくは普遍妥当 性は、商品における人間の自己疎外の、人間性そのものからの抽象の反映にほかならない。資本主義の発展の過程において、商品の構造は絶えず一層深く、一層 運命的に、一層構成的に人間の意識の中にはいってゆく。あらゆるロゴスは商品の範疇の普遍的なる、決定的なる支配のもとに、人間から抽象された、したがっ て現実の存在から游離された、悪しき意味におけるイデオロギーに移り変ってゆき、かくして逆に人間性の発展を抑制し、圧迫する。しかしながら有産者にはこ のようなイデオロギーを批判する可能性がその存在のうちに与えられていない。なぜかならば彼らの存在はそこにおいて直接に肯定されており、それ故に存在を 過程において、歴史において考察することが拒まれているからである。これに反して、無産者は現在の社会においてその存在が否定されているが故に、まさしく その否定性の故に、存在を運動性において、歴史性において把握することが出来、また把握せざるを得ない。
うちの会社は行政書士さんのアポスティーユ 代行を利用しているので、このブログでもっと
知識をつけたら、自分でできちゃうかも(笑)

創業融資

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創業融資を受けたいと考えています。創業融資というのは、日本政策金融公庫などから
創業時にかなり有利な条件で融資を受けるというものです。
今日は書店で創業融資の本を買って、電車内では三木清の文章を読んでいました。
現在が末法の時であるという意識は親鸞にとって正像末三時の教説によって、単に超越的に与えられたものではない。それは彼の時代の歴史の現実そのものの中 から生じたものである。彼の時代は政治的動揺の激しく、戦乱の打ち続いた時代であった。宗教界もまた決して平穏ではなかった。承元の法難には親鸞も連累し た。この事件において彼の師法然は土佐に流され、彼自身は越後に流された。いわゆる「闘諍堅固」は彼にとって切実な体験であった。彼の心を何よりも痛めた のは高潔であるべきはずの僧侶の蔽いがたい倫理的頽廃であった。時代の歴史的現実わけても宗教界の状態は、まじめな求道者をしてもはや世は末であるという ことを感じさせずにはおかなかったであろう。末法思想は鎌倉時代の仏教の著しい特色をなしている。それはこの時代における宗教改革の運動、新宗教の誕生に とって共通の思想的背景となっている。法然や親鸞、日蓮は言うまでもなく、栄西や道元のごときも何らか末法思想をいだいていた。法然上人の反対者であった 明恵上人や解脱上人ごときですら末法思想を持っていた。ただ、末法時をいかに見るか、またいかにこれに処すべきかについては、これらの人々の見解は一様で はなかった。
創業融資の事業計画書についてあれこれ考えながらさらに三木清の著作権切れの文章を読みました。
もちろん直接的には創業融資と何の関係も無いですが、行間を読むと見えてくるものがあります。
現在のこの現実が問題である。釈迦はすでに死し、弥勒はいまだ現われない。今の時はいわば無仏の時である。過去の理想も未来の理想も現在において自証されないかぎり意味を有しない。現在の現実の自覚における唯一の真実は現在がまさに末法の時であるということである。
 時代の歴史的現実の深い体験は親鸞に自己の現在が救い難い悪世であることを意識させた。しかも彼のこの体験を最もよく説明してくれるものは正像末の歴史 観である。正像末三時の教説は歴史の現在の現実においてその真理性の証明を与えられている。この歴史観は歴史の過程をいかに描いているか。『末法燈明記』 には次のごとく記してある。「問ふ、もししからば、千五百年のうちの行事いかんぞや。答ふ、大術経によるに、仏涅槃ののち、はじめの五百年には、大迦葉ら の七賢聖僧、次第に正法をたもちて滅せず、五百年ののち、正法滅尽せんと。六百年にいたりて、九十五種の外道きほひおこらん。馬鳴、世にいでて、もろもろ の外道を伏せん。七百年のうちに、竜樹、世にいでて、邪見のはた)をくだかん。八百年において、比丘縦逸にして、わづかに一二、道果をうるものあらん。九百年にいたりて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年のうちに、不浄観を聞〔欄外「開?」〕かん、瞋恚しんい)して欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん、僧毘尼びに)を毀謗きぼう)せん。千二百年に、諸僧尼らともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子みな猟師のごとし、三宝物を売らん。ここにいはく、千五百年に拘※弥コーシャンビー[#「目+炎」、U+7752、408-上-9]国 にふたりの僧ありてたがひに是非を起してつゐに相殺害せん。よりて教法竜宮におさまる。涅槃の十八および仁王らにまたこの文あり。これらの経文に准ずる に、千五百年ののち戒定慧あることなし。」諸種の経文は、釈迦の死後、やがて正法が滅び、戒を持する者がなくなるであろうと言っている。
創業融資について、また発見があったらお知らせしますね。
アポスティーユ代行について考える拠り所として、三木清の次の文章を読んでみましょう。
アポスティーユ代行について直接論じているわけでもなく、著作権も切れていますが、
大いに参考となるでしょう。
それに悪いことには少しばかりの才能を持合せていたので、私は多くの人に起るように何にでも反対したり反抗したりして自己の才能を示そうとした。私は自分の意志することはなんでも成遂げられると信じていた。そして私は私の注目に値したすべての種類の人になることを次から次へと空想して行った。政治家、弁護士、法律学者、文学者、批評家、創作家、新聞記者、哲学者......。ただ私が初めからなってみようと思わなかったことが二つあった。それは商売人と軍人とである。後に私の反抗は習慣的になってしまって、なんらの動機もなく、またなんらの理由もなしに、ただ無暗と人に反対したり喰ってかかったりした。私はそうしたあとで本当にやるせない寂しさの中に自己の醜悪を感ずるのであったが、習慣から脱することは他から考えられるほど容易なことではなかった。私はあたかも傷ついた野獣のような姿をして、ただなんでもいいから自己を通そうとした。私の友だちは私のこの性質を「押しが強い」と名づけた。反抗は外に向う心であり物をそれに従って正直に理解することではないから、反抗が行われるところに正しき懐疑は存在しないのは明らかである。真の疑いはいつでも自己に反って求めるところから、事物をありのままに認識するところから始るのである。
 二、三の友だちは私にこういった、「君は不幸に逢わなければよくなれない。君は大きな打撃にぶっつかる必要がある。」私はいまそれらの言葉をもう一度はっきりと思い起して、その意味を自分で適当に解釈しながらしみじみと味ってみる必要がある。それは何より先に謙遜なる心の回復を意味するのでなければならない。しかるに謙虚なる心は小さい自我を通す喜びによってよりもそれを粉砕する悲しみによって得られるのである。険しい道に由《よ》り狭い門をくぐって私たちは天国に入るのである。この世の智恵を滅ぼすとき神の智恵は生れる。まことに天国は心の貧しき人のものである。私はいまさらに新なる感興をもってゲーテの有名なる詩の一句を誦せざるを得ない。
アポスティーユ代行を考える際のご参考になりましたか?
今日は事務所移転についていろいろと書きたいと思います
まず事務所の移転となると私もそうだったけどいろいろと面倒な
事ばかりあって嫌になりますよね
まず場所探しから引越し業者探しといろいろありますが
まず、今までお世話になった方々への挨拶状を作らないといけません
そこで、私の経験から挨拶状はまずネットで料金などを
調べて大体の目安を知っておくべし
印刷会社によっては料金はまちまちですからね
私のお勧めはいろいろありますが警固印刷という会社
料金もわかりやすいし送料込みだから安心です

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